デヴィ夫人が若い頃に噂のあった俳優は意外なあの人だった・・・
「世界の果てまで行ってQ」など様々なバラエティ番組で人並み以上に体を張っていて、
リアクション芸人をも脅かすようなチャレンジ精神にあふれる性格で、セレブなのに請けた仕事は断らないとうプロ意識を持っておられるデヴィ夫人。
常に新しいことにチャレンジする向上心は恋愛にも影響をもたらしていて、デヴィ夫人の自著の中で
若い頃に噂のあった俳優について赤裸々に語っています。
その人物とはいったい誰なのか?について取り上げていきます。
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デヴィ夫人
1940年生まれでインドネシア国籍のタレントさんです。
インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人、NPO法人総裁とはちみつの健康食品を取り扱っている会社の代表取締役でもあります。
日本ではデヴィ夫人で通っていますが、本名は根本 七保子(ねもと なおこ)とおっしゃいます。
通称がデヴィ夫人なので、なかなかイメージしにくいですが、昔の女性の名前っぽいですね。
インドネシアに国籍を移して名前を「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」と改名する。向こうの言葉で「宝石の妖精」という意味だそうです。
当時のデヴィ夫人の写真を見てみると納得してしまうくらい美しいです。
デヴィ夫人が若い頃に噂のあった俳優とは?
貧乏人から大続領夫人になるというシンデレラストーリーを歩んできたデヴィ夫人。
自書のデヴィ・スカルノ自伝で、1963年に俳優の本郷功次郎、そして1969年には津川雅彦と不倫をしていたんですよ。と
赤裸々に自著の中で告白している。
最初の不倫が本郷功次郎さんという人物で、千葉真一さんの主演映画「空手バカ一代」などで有名になり、
ドラマでは水戸黄門によく出演されていてたイケメン俳優さんとの不倫を打ち明けています。
ちょうどこの時期にスカルノ大統領の第3夫人として認められたときです。
インドネシア政府から正式に大統領夫人として認定されたのが、1965年。
それまでは、事実婚のような状態で、当時は赤坂の有名高級クラブのホステス嬢だったんです。
訪日中であったスカルノ大統領と運命の出会いを果たし、3回目のデートでブロポーズされ、インドネシアに渡り、40歳年上の大統領との恋が話題になりました。
当時は19歳でインドネシアの大統領に出会えるなんて、強運の持ち主なんですね(笑)
結婚された後、デヴィ夫人は幸せが長続きするかと思いきや、わずか2年後に終身大統領を解かれてスカルノ大統領が失脚し、娘のカリナを連れてパリに亡命。
その後、日本にも来ており、大統領が逝去する少し前に、津川雅彦さんとの不倫をされていました。
津川雅彦さんといえば、奥さんが朝丘雪路さんで有名で出演した映画やドラマは数え切れないほどの大物俳優さんです。
亡命しているときに不倫とは、すごい度胸をされているんですね。
実はスキャンダルの女王?
亡命したパリで社交界の華として賛美され、”東洋 の真珠”と称されるほど美しく、そこで出会ったスペイン人で投資会社の経営者と婚約したあと、
資産の20億円をつぎ込み、あえなく大損して日本に戻り、その美貌とトーク力で数々の社長さんたちから援助を受け何とかその場を乗り切ります。
資産を失ったので日本に戻り、元大統領の夫人という地位を活かし選挙に出ようとした矢先に、
ニューヨークのバーティ会場で口論になった相手の女性にシャンパングラスを投げつけて、
ケガをさせてしまったことで禁固60日を受けて、国籍取得が難しくなり選挙にも出られませんでした。
翌年には、支援チャリティを開催するのですが、収益金の10万ドルを寄付しておらず、大変な詐欺騒動まで起こされています。
スカルノ大統領の逝去後は散々な人生になってしまっているのですね。
まとめ
生まれは貧しかったにもかかわらずインドネシア、パリ、ニューヨークなど世界を股に掛けるスキャンダルの女王となり、
スカルノ大統領と結婚していながら二人の俳優、本郷功次郎さん、津川雅彦さんと不倫していた事実。
デヴィ夫人の名言に「新しい事に挑戦するのは、まったく怖くないわ。私が、本当に怖いのは挑戦する気持ちが、なくなってしまう事よ」と、
不倫に恋に、バラエティでは体を張ったスタントなどに挑戦し、今ではそれがウケてテレビ番組などでひっぱりだこになり
芸能界でのスターの地位を確立していってます。
いくつになっても新しいことにチャレンジしていく気持ち、私も見習って後悔がないようにしていきたいですね。
デヴィ夫人の今後の活躍も気になるものです。
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